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 東にそびえる比叡の山並み、祇園祭、夜の花町に行きかう美しい舞妓さんと芸妓さん達、あでやかな着物展示会、あちこちで開かれる茶の湯の会。こういった京都の情緒とはまったく無縁な学生生活を送った私が日本を離れてもそれほどホ-ムシックにかからないのは、あるいはまだ日本の本当の良さを知っていないからかもしれない。しか三十年以上に及ぶ外国での経験は、これらを上回る喜びをもたらしたと確信している。

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京都の府立医大を卒業後暫くは近くの病院で勤務していたのに飽き足らなくなり、カナダの研究所へ飛び込んだのは、今から考えると無鉄砲この上ないのだが、これを後悔したことが一度もないのは、私の幸せだろう。ここに三年いた後、ドイツの研究所から招待を受け、これもあまり将来を考えずに大西洋を渡ってしまったのは、人が石橋を叩いているうちに、腐りかけた橋でもさっさと向こう岸へ渡ってしまうという、私のおっちょこちょいのなせる業である。
 そんなわけでこの国へやってきたのだが、それからというものは少しも腰を落ち着けず、引越しを繰り返している。だがこれは一概に私のせいではなく、周囲の状況の変化により、やむをえなく勤め先を変えざるを得なかったことが多いと私の名誉のために書いておかねばならない。例えばドイツへ来てから何年かして、役所から、滞在許可と医師としての労働許可を更新しないとの通知を受けた時は、ドイツの医師免許の要らない米軍病院へ転がり込むしか方法がなかった。こういう時に偶々米軍病院が産婦人科の医師を募集していたのはとてもラッキーで、実はそれ以前もその後も米軍からの広告は一度も見ていない。多分私にはいよいよ落ち込んでも救ってくれる幸運の天使がついているに違いない。それにしては宝くじが一度も当らないのはどうしても解せないのだが。
 それはともかくとして、私の外国生活は産婦人科内分泌の研究者として始まったわけだが、これも続けるうちに、どうもノ-ベル賞を取るような頭ではないことに気づき、臨床家に戻ったのは正解だった。私の性格のひとつの良いところは、変わり身の早いこと。この臨床家に戻ったあとでも、内分泌を続けてやろうとすれば、これは日本でも同じことなのだが、体外受精をしなくてはお話しにならない。しかしこれを一人でするのは財政的にも、肉体的にも負担が大きすぎる。その当時エッセン大学の外来の主任をしていたのだが、ここに多い乳癌の診断を手伝っているうちに、今度はこれがいつの間にか専門になってしまった。今ではマンモグフィ-、超音波、生検を毎日こなしていて、ホルモン専門家としての私を知らない人がほとんどである。日本を出た時は、まさか自分が乳癌を専門にするなどとは夢にも思わなかった。よく言えばこういう柔軟性が外国では必要なのかもしれない。上にも書いたように、官僚主義の壁はどこの国にもあり、自分の意志だけでは生きてゆけないことも多いのを特に外国で学んだのである。